八幡岬公園は海に突き出た岬にあり、かつて勝浦城がありました。現在園内には、遊歩道が整備されていて、散歩やジョギングを楽しむ人も多い。また、芝生の広場やアスレチックもあるので、子どもたちも充分楽しめます。展望デッキの近くには、勝浦城の姫君お万の方(水戸光圀の祖母)の像があります。
基本情報
八幡岬公園 | かつて勝浦城があった |
住所 | 勝浦市浜勝浦221 |
電話 | 0470-73-2500 (勝浦市観光協会) |
営業時間 | 自由 |
休業日 | なし |
料金 | 無料 |
駐車場 | あり(無料) |
トイレ | あり |
アクセス | JR外房線勝浦駅から車で約10分 JR外房線勝浦駅から徒歩約30分 |
八幡岬公園に初めて車で行かれる方は、勝浦漁港前の道路から行くと分かりやすいよ。
漁港を通り過ぎると上り坂が続きます。
突き当たりを右折してトンネルを抜けると駐車場。
市民の憩いの場所です。
公園内は遊歩道が整備され子供の広場やアスレチックもあるよ。
公園入口
少し歩くと右手に勝浦漁港と中央海水浴場付近の三日月ホテルが見える。
遊歩道は歩きやすい。
今度は右手に勝浦海中展望塔と鵜原理想郷のある明神岬が見える。
リアス式の海岸がキレイだよ。
海水も透明度が高い。
正面に子供の広場が見えてきた。
子供の広場の手前に八幡神社に行ける階段がある。
石碑に「勝浦城址」・「養珠夫人誕生地」と彫られている。
鳥居
上り坂が続く。
社殿が見えた。
八幡宮の扁額
参拝を終えて戻ります。
子供の広場にあるトイレ
忠霊塔と休憩所
休憩所の近くから見える旧遠見岬神社の海中鳥居。
遠見岬神社はその昔ここにありましたが、津波による被災で現在の地に移りました。
アスレチックがあるのもうれしい。
子供がおもいっきり遊べるね。
展望デッキを目指します。
この先は木製の階段です。
休憩所が見えてきた。
お万の方と展望デッキ
お万の方(水戸光圀の祖母)
養珠院於萬の方について書かれた看板
養珠院於萬の方
大正五年(一五七七年)四月四日、上総国勝浦城主正木左近大夫頼忠の娘として勝浦城(現在勝浦市浜勝浦八幡)に生まれる。本名を萬といった。
同十八年(一五九〇年)六月、豊臣秀吉の小田原城攻略に関連し勝浦城は落城、当時十四歳の於萬は海路伊豆韮山(にらやま)へ逃れた。炎上する城を後に幼い弟を背おい母と四十メートルもある八幡岬の断崖に白布を垂らして海に下り小舟に乗って逃れたという話は『お萬の布ざらし』として今尚言い伝えられている。
その後、母が伊豆の土豪蔭山氏と再婚をした機会に、徳川家康に沼津本陣で見染められた於萬は、江戸城に召されて家康の側室となった。文禄二年(一五九三年)十月二十二日、十七歳の時だったという。江戸城では於萬の方、蔭山殿と呼ばれた。慶長七年(一六〇二年)三月、京都伏見で長福丸ー後の紀伊徳川家の祖頼宣ーを生み、さらに翌八年には、駿河で徳千代ー後の水戸徳川家の祖頼房ーを生んだ。紀伊家、水戸家は共に徳川御三家として名高く、又水戸黄門の逸話で知られる水戸光圀は頼房の子であり於萬の方の孫にあたる。
元和二年(一六一六年)家康が死去した時四十歳の於萬は仏門の人となった。
法華教に帰依した於萬は諸寺を建立したが八日市場市の飯高檀林道もその一つである。
生涯は仁慈貞潔のことば通りで、家康によく仕え、子弟の教育に尽し、信仰の心篤く、病める者には医薬を恵み、貧しい者には依財を与え、刑罰にあう者には命乞いを行うなど数々の優れた業績を残したが、晩年は落飾して蓮華院と号し承応七年(一六五三年)八月二十二日、享年七十七歳の生涯をとじた。
<立て看板より>
徳川家系略図
展望デッキからの眺め
東に勝浦灯台が見える。
青い空と青い海、気持ちいいね。
展望広場と休憩所
休憩所
東側の眺め
南側の眺め
自然散策路がありますが現在立ち入り禁止です。
このように太平洋と勝浦湾を一望することができます。
ぜひ足を運んでください。
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